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「平和を生み出すBFP」
ここ数日の、集団的自衛権関連の報道を目にするにつけ、以前理事をしていたNPO法人Bridge For Peaceが発行した「私たちの歴史認識〜戦後世代の声〜」に載せてもらった、以下の自分の文章を読み返しました。いまとスタンスが変わらないなあと思いました。指示語が多い文章だし恥ずかしいですが、どなたかが読んで、自ら行動するきっかけになるかもしれないので、アップしておきます。もし読んでくださった方がいらっしゃれば、ぜひ感想を聴かせてください。

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「平和を生み出すBFP」

私の危機感「日本はまた戦争になる」

 こう言ったら、あのバカ、気でも変になったんじゃないかと思われるだろうか。
 もちろん、私だって、そんなことは想像もしたくないし、正当化される無差別大量殺人という悲劇にほかならない戦争が日本でまた起きるなんてことはこれっぽっちも望んじゃいない。ただ、その戦争の放棄をうたった第9条を含む日本国憲法が作られた当時に比べたら、現状、日本はまた戦争になるという危機感が非常に大きくなっていると主張しても、それほど的外れではないと思う。
 私にそう危惧させているのは、昨今の憲法改正の動きだけではない。
 憲法改正の動きは、あくまで政治上の動きであって、一国を戦争に向かわせるための前提のひとつでしかない。もっと根本的かつ危機的な動きは、政府に対する主権を持ち、政府の動きを作り出している私たち国民の考えのなかにある。それは、「平和のための戦争を終えるための戦争など、正当化される戦争もあるのであって、そういう戦争であれば起こしても仕方がない」という理屈に納得する人々が増えているのではと感じられることではないかと思う。そしてそうした考えに人々を導いている原因は、そう考える彼ら自身が戦争の悲惨さやそこで行われる殺戮の恐ろしさ、人間が人間でなくなる悲しさを知らないこと、換言すれば「戦争を知らない世代」が増えているという現実ではないだろうか。
 この現実が、私に危機感をもたらしている。

体験としての戦争

 この危機感は、私のこれまでの人生のなかで徐々に積み重なってきた。私は、国際協力に携わる開発コンサルタントという仕事をしていることもあり、これまで多くのアジアの国々に足を踏み入れ、そこに暮らす人々と接してきた。そうした交わりのなかでは、なかば当然の流れで、私たちの話題は日本と彼らの国の友好に関する話になる。そうしたとき、過去に起きた戦争の話、つまり太平洋戦争についての話題を避けて通ることはできない。別の言い方をすれば、太平洋戦争について語り合うことを抜きにして、両国の本物の友好を築くことは不可能に近い。その話題を語り合うなかで痛切に感じてきたことは、彼らの多くにとって戦争は終わっていない、戦争の問題は解決していないということである。これは、戦争は終わっている、戦争の問題は解決していると考えている日本人の大勢の認識とは明らかに異なっている。
 果たして、この違いはどこから来るのだろうか。
 ひとつには、一般的に言われているように、やはりそれぞれの国での戦争に関する教育の違いがあるだろう。日本では、太平洋戦争のことも含め、近現代史は学校でもないがしろにされているし、歴史以外で戦争について学ぶことができるような授業は少ない。そもそも、日本の戦争に関する歴史や議論に詳しい先生など極めて少ない。まして、学校外で戦争を知るような機会は非常に限られている。一方、韓国や中国では、おそらくほかのアジア諸国でも、日本との戦争の歴史は学校で必ず学ぶだろうし、普段の生活のなかでも年配者から直接、戦争の話(それも被害者の観点から)を聞く機会も多いのではないかと想像する。このように、戦争に関する教育について、日本とアジア諸国の間で大きな隔たりがあることが、戦争に対する認識の違いをもたらしている一要因と考えられる。
 ここでいう戦争とは、教科書やメディアから受け取る単なる知識としての戦争だけではない。「体験としての戦争」が大きな割合を占める。体験としての戦争というのは、もちろん、自分が戦場にいたことがあるという類いの経験ではなく、戦争世代の戦場での実体験に自らの耳を傾け、その戦争体験者の心理状態に寄り添い、戦争の恐ろしさを自らの感情でもって、リアルに体験したという経験である。
 こうした文脈で考えるとき、将来の時代を創っていく日本の若い世代は、「体験としての戦争」をもっともっと知る必要がある。正当化できる戦争があるという主張に安易に迎合しないためにも。そのためには、海外であれ日本国内であれ、実際に戦争という大義のもとに行われる残虐行為を体験した人々から、そのときにどう感じたのか、戦争とは何なのかという問いについてどう考えるのか真摯に耳を傾ける必要がある。
 この「体験としての戦争」は、戦争を体験した人間との実際の会話のなかで、もしくはそれらを語る映像を観ることを通して、彼らの表情や声調や雰囲気の変化などから当時の彼らの気持ちを想像することからしか感じることはできないと思う。だが実際には、既に述べたように、日常生活の中ではそれらを実践できる機会は非常に限られている。その機会をできるだけ多くの方に提供しようとしているのがブリッジ・フォー・ピース(以下、BFP)である。別の言い方をすれば、BFPの活動を広げていくことによって、より多くの「体験としての戦争」を知らない世代にそれを知るきっかけを与えることができるのである。そしてそのことが、若い世代が「正当化される戦争もあるのであって、そういう戦争であれば起こしても仕方がない」という考えを自問する手がかり、その上や下の世代に働きかけていく手がかりになるのではないか。これが、私がBFPの活動に関わってきている理由に他ならない。

BFPとの必然的な出会い

 とはいえ、私がBFPの活動に関わるようになったのは、それほど昔のことではない。2007年3月、フィリピン・ミンダナオ島での復興支援に関する調査に関わり始めてからだ。
 その調査では、ミンダナオ島の紛争影響地域と呼ばれる地域のバランガイ(フィリピンの最小行政単位)の基礎情報(人口、民族構成、経済状況、インフラ状況など)を収集するという仕事があり、そのために私も多くのバランガイを実際に訪れる機会があった。そこで出会ったのが、片言の日本語を話す年配のフィリピン人の方々だった。彼らとどういう話をしたのかはあまり覚えていない。彼らも、自分たちは日本人を知っている、彼らから日本語を習ったのだ、山下将校を知っているかなどと言っていただけで、日本や私を責めたりした訳ではなかった。ただ、日比間の歴史について浅はかな知識と考えしか持ちあわせていなかった私は、被害者を前にしてどういう反応をしていいのか全くわからず、文字通り凍りついてしまった。そのときの心境は、加害に対する謝罪でも反省でもなく、友好を築こうとする積極的なものでもなく、ただただどうしていいかわからない、というものだった。
 加害者としての日本。その日本から来た自分。初めて突きつけられた現実だった。
 ここで断っておきたいが、私がフィリピンに関わったのは、このミンダナオでの調査の時が初めてではない。それまでもフィリピンに関わることはあった。高校では、太平洋戦争のなかでの日比間の歴史を断片的にであれ学んでいはいたし、大学では国際関係学を専攻していたこともあって、一般の日本人よりはフィリピンに関する知識は多いほうだったろう。大学院では、国際協力の現場を学ぶ現地実地研修でフィリピンに数週間滞在するなかで多くのフィリピン人とも友達になり、その後は、スモーキーマウンテン(ごみ山)で悪名高いパヤタスの子供たちを描いたドキュメンタリー映画「神の子たち」の上映会ボランティアなどにも積極的に参加した。
 だが、当時は、日比間の歴史を直視することがフィリピンとの友好を築くために重要なことであるとはあまり思わなかったし、BFPのような活動に行動を移すところまで至らなかった。なぜだろうか。
 勿論、ミンダナオでの経験のあとは、BFPとタイミングよく出会ったという偶然も大きいだろう。だがそれ以上に、私の内面ではそれまで知らず知らずのうちに、「戦争を知らないことが問題である」ということに対する鬱積した思いが積み重なっていたからだろうと考えられる。それは、戦争という特定の問題について、日々考えてきたからではない。たとえ戦争とは直接的に関係ないことであっても、日本社会がおかしい、と思わせるだけの不可解な事件が毎日起きていて、それに対してこの根本的原因は何なのだろうと自分が常に考えてきたことがあるのではないかと思う。あらゆる社会的事象の背景には、その事象が起こらざるをえなかっただけのプロセスがある。そのプロセスのもとをたどっていくと、小さいときに摘んでいれば大きな問題として発現されなかったであろうに、摘まれなかったばかりに大きな問題になってしまった、過去に解決されてない根本問題があるのではと思うようになった。過去に解決されていない根本問題、それは日本にとってはあの戦争ではないかと感じるようになっていたときに、偶然か必然か、BFPの活動に出会ったのだ。「戦争を知らないことが問題である」と私と同じように考えただけでなく、実際にビデオカメラを持って行動に移していた神直子との出会いである。

フィリピンと日本を結ぶビデオメッセージ・プロジェクト

 聞けば、フィリピンでの残虐行為に加担したことを悔やんでいる元日本兵の方々の証言を、ビデオメッセージとしてフィリピンの人々に届けるという活動をしている女性がいるとのこと。細かいところは違えど、彼女が目指しているものは、「体験としての戦争」を「戦争を知らない世代」に伝えることにあるに違いないと考え、ミンダナオでの硬直体験がずっとひっかかっていた私は、何かに導かれるようにして、彼女が主催するBFPのビデオ上映会に足を運ぶことになった。
 心が揺さぶられた。
 元日本兵の方々が語る事実にではない。では何に?と問われるとうまく表現できないが、言葉にして余りある辛い記憶や良心の呵責に敢えて向き合い、時折言葉を詰まらせながらも、何のためにか振り絞るように語る元日本兵の方々の姿に、そしてその心境に、だった。ビデオメッセージの映像が進むうちに、彼らの気持ちを感じとってしまった私は、高まる感情を抑えきれなかった。それは私自身にとって衝撃的なことだった。なぜなら、普段の生活ではそういう感情の高まりを抑えきれない、ということがないからである。映画を観て感動して涙する、ということはごくたまにあるが、それとは全く違う涙だった。
 もうひとつ、正直に書かなければいけない問いがある。それは、元日本兵の方々の心境に揺さぶられたほど、フィリピンの人々の証言に揺さぶられてないということだ。語弊を恐れずにいえば、フィリピンの人々の証言に揺さぶられていない訳ではない。ただ、元日本兵の方々ほど、フィリピンの方々の気持ちには寄り添えていないのである。これは私が日本人である以上、仕方のないことなのかもしれないし、その壁を越えることは不可能なのかもしれないが、ビデオメッセージを見るたびに自分に投げかけている問いである。
 今でもBFPの映像を見るたびに、私は感情が高ぶる。それは被害とか加害とか、頭で考える論理から産まれるものではない。単純に、人間としての心に訴えるものがあるからである。これに似た感覚を味わったのは、実はBFPの上映会が初めてではなく、生まれ故郷である長崎での小学生・中学生時代でもあった。

「原爆」に関する教育と「戦争」

 それは、被爆体験を聞いたときに似た感覚であった。
 長崎の小中学校では、原爆投下の日である8月9日に「平和集会」が開かれる。平和集会では、原爆で亡くなった方々のご冥福を祈り、世界の平和を願う。平和というテーマのもとに学んだ「平和学習」の成果の発表などのあと、原爆投下時刻である11時2分には全校生徒で黙祷が行われる。その後、「青い空は」や「夾竹桃の歌」などの合唱があって閉会する場合が多いが、私が通っていた小学校では、被爆者の方による被爆体験が語られたことがあった。被爆者の方々の、原爆投下直後の地獄絵図を想像させるような表現は非常に生々しく、子供心に「原爆は怖いもの、なくさなくてはならないもの」と強く感じたものである。これには、BFPで元日本兵の方々の証言に触れるときに抱く感覚と共通するものがある。
 しかし同時に、私には違和感があった。平和集会は原爆を落とされたという側面だけ、つまり被害者の側面にフォーカスされているような印象を持っていたからだ。勿論、まだ判断力も何もなかった小学生低学年のころからそういう疑問を持っていたといえば嘘になるが、中学生になるころには、授業で太平洋戦争を含めた歴史を学び、日本がアジア諸国で行ったことの片鱗は知るようになっていた。そうなってくると、ひとつの考えが頭をもたげてくる。
 日本は被害を受けただけなのか?被爆地は被爆体験を伝えるだけでよいのか?
 同じような考えは、高校を卒業して大学に進んだ広島でも抱くことになる。広島は、長崎に輪をかけて、「被爆地としてのヒロシマ」を謳い、世界的にも平和を希求するメッセージを発していた。そこには、加害者としての日本が入り込む余地はなかった。例えば、戦争で使用された毒ガス製造工場があった広島県・大久野島のことや、アジア侵攻に大きな役割を果たした陸軍第五師団のことなどが触れられることは少ない。
 勿論、アメリカによる一般市民を標的にした原爆投下は決して正当化されることではないし、被爆地としての立場から核兵器の廃絶を訴え、平和を希求することは広島や長崎にしかできないことだと思う。
 だが、それはあくまで「原爆」を「原爆を知らない世代」に伝えているのであって、もっと大きな枠組みのなかで、「体験としての戦争」を「戦争を知らない世代」に伝えることにはならないのである。そういった意味で、被爆体験を聞いたときの感覚は、元日本兵の方々の証言を聞いたときに高ぶる感情とは似て非なるものなのだと思う。

BFPを通して目指すもの
〜現在のために、過去と向き合う

 日本はまた戦争になる、のではないかという危機感に加えて、BFPの活動に私を突き動かしている仮説がある。それは、戦争を含めた過去の問題にしっかりと向き合い、その根底にある本質的な原因を解決するための努力をこれまで怠ってきたがために、現在の日本の様々な社会問題が頻発する素地を作ってしまったのではないかという仮説である。語弊を恐れずに言えば、現代日本を生きる私達にとっての戦争とは、殺戮兵器を使って人々が殺し合う物理的な戦争ではなく、その過去の問題の根底にある本質的な原因との見えない戦争なのかもしれない。この仮説を検証するのは難しいが、そうだとしても、現代社会に大きな影響を与えたであろうあの戦争は何だったのか、あの戦争が問題を内包しているとしたらその存在を疑って、現代を生きる私達がそれを検証することで将来を創るための教訓を得るという作業は決して無駄ではない。それも文献資料などを通して頭の中だけで考えるのではなく、戦争経験者のインタビューで語られる「体験としての戦争」に対峙することによって、心で捉えなおすことで、善悪の判断のベースにある感情をも検証の材料とすることができるのではないか。
 これまで述べてきたことと矛盾するかもしれないが、戦争と向き合うための材料を提示してくれるのは、戦争経験者だけではない。戦争を体験していない世代からも得ることができる。戦争を体験していない世代であっても、戦争体験者を通しての戦争を知った人々との交流からも、戦争と向き合うことができるだろう。過去に戦争を体験した親や祖父母を持つ世代が、体験としての戦争を聞き、自分の頭で解釈し、目を背けたいような負の歴史と向き合う。そこで感じたことや考えたことを、戦争のときは敵国だった人々と正直に語らい、ときには感情的にもなって共有する。その過程で、お互いの良いところも悪いところもさらけだしてはじめて、「真の交流」のスタートラインに立てるのではないか。これは裏を返すと、過去に戦争をした国同士の人々が(例えばフィリピンと日本)、たとえ戦争の話に触れることなしに仲良くなったと思ったとしても、それはあくまで表層的な錯覚であって、真に分かり合えたとは言えないのではないかということである。BFPはそういった真の交流を目指しているし、結果的に真の交流を実現してきていると考える。
 但し、上記のように、いきなり「体験としての戦争」をぶつけ合うことはリスクが高い。戦争はやはり心理的にネガティブな内容であり、ネガティブな話は誰しもできるだけ聞きたくないし、拒否反応を示す。最悪の場合、そのことが理由で、会話をしている相手の人間性まで拒否してしまいかねない。これはBFPの活動を紹介・広報するにあたっても同様で、戦争の話だと聞くと拒否反応を示す人の方が圧倒的に多い。ここでBFPには違ったアプローチが求められる。
 このリスクに対して、BFPでの試行錯誤から徐々に見えてきた解決策がある。それは、入り口は何でもいいということだ。重要なのは、経験を共有できる活動に取り組むこと。例えば、お互いが参加できるスポーツや音楽、それこそおしゃべりでもいい。その内容も、必ずしも戦争に関係するものでなくていい。それらの活動を通して、活動に参加している相手の行動や反応を見て、それまで自分とは違うと思っていた人が、実は同じような人間だと気づく。人間として嬉しいことは相手も嬉しいし、悲しいことも同じように悲しい。そうして、相手も同じような感情を持つ人間だと自分で実感することができれば、相手の立場になって考えることができるようになる。少し飛躍しているかもしれないが、その変化が、人が人を傷つけたり殺したりする悲惨さや恐ろしさを理解し、「体験としての戦争」を知る出発点になるのではないかと思う。
 冒頭の「日本はまた戦争になる」危機感を思い起こしてみる。
 危機感があるのなら、行動しないと駄目だ。行動なき思考は何も生まない。----誰が言ったか知らないが、私が好きな言葉であり、自分を戒める言葉でもある。BFPを通じて、自分を通じて、少しずつでも平和を生み出していきたい。

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